正岡子規はなぜ牛肉を食べることをすすめた?御馳走論とは?

近代俳句の祖と言われる正岡子規は、牛肉を食べることを勧めたそうです。子規の俳句の作品の中には、牛肉に関する句もあります。
正岡子規はなぜ牛肉を食べる事をすすめたのでしょうか?また晩年にはご馳走論を提唱したと言われていますが、その後馳走論とはどの様なものだったのでしょうか?
8月19日の俳句の日に因んで、正岡子規の余り知られていない側面について、調べてみたいと思います。

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正岡子規の牛肉に関する句とは?

正岡子規は、牛に関する俳句も色々と詠んでいますが、牛肉に関する句も多数あります。その句を列挙すると以下の通りです。
「松茸や京は牛煮る相手にも(明治25)」「牛鍋につつき崩せし根深哉(明治25)」「牛肉の鍋おろしたる熱さ哉(明治26)」「牛肉の鍋にはりつく熱さ哉(明治26)」「白葱の一皿寒し牛の肉(明治26)」「 春雨や油滴る牛の肉(明治27)」「牛喰へと勧むる人や冬籠(明治32)」
これを見ると、牛鍋に関するものがほとんどで、また詠まれたのが明治25年・26年に集中している事が分かります。
明治25年・26年と言えば、子規が24~25歳頃であり、帝国大学文科大学を中退し、日本新聞に入社した頃です。
正岡子規の牛鍋好きは、親友である夏目漱石が子規の死後の追悼文「正岡子規」で、そのエピソードを語るほどでした。

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正岡子規が牛肉を食べる事を推奨した理由

正岡子規は、母の回想によると、幼い頃から虚弱体質で背も低く、内向的性格であったと言う事で、よくいじめられていたそうです。
そして成人した子規は、明治21年に初めて喀血し、翌年の5月には大喀血を起こし、そこで医師から肺結核との診断を下されました。
先の牛肉・牛鍋の作句が集中している明治25~26年には、すでに肺結核との診断が下されていたのです。
当時、結核は不治の病とみなされており、また栄養を摂る事が最も大切だとされていました。子規の牛鍋好きは単に嗜好の点だけでなく、こうした影響もあったと推察されます。

正岡子規の御馳走論とは?

正岡子規は先に記載した様に牛鍋を好み、その牛鍋などのご馳走をしかりと食べるべきだと、高浜虚子など周囲の人に事あるお毎に述べていました。その理由は、ご馳走を食べなければ良い仕事はできないと言うもので、ご馳走こそ活力の源だと言うのが「ご馳走論」の骨子です。
子規が言うご馳走は、動物性たんぱく質を摂取する事を勧めるものと言えます。当時の平均的日本人の食生活は極端な粗食であり、正岡子規が指摘した動物性たんぱく質を摂取すべきと言う論は、至極正しいものであると言えます。
正岡子規の言うご馳走は、動物性たんぱく質を摂るための牛鍋等を指すもので、決して豪華な食事を指すものではありませんでした。

まとめ 正岡子規と牛肉

正岡子規は牛鍋を好み、周囲の人達にも、事あるごとに牛鍋などのご馳走を摂る事を勧めていました。ご馳走を食べなければ、良い仕事が出来ないし、効率が上がらないと説いていたのです。
これは正岡子規の「ご馳走論」とされており、その骨子はしっかり動物性たんぱく質を摂るべきと言うもので、粗食であった当時の食生活の改善としては正しいものです。
こうした考え方と自分が牛鍋好きであった事から、牛肉に関する句もいくつも詠んでいます。うがった見方かも知れませんが、その背景としては子規が重い肺結核を患っていた事と、無縁ではない様に思えます。

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